小学生の頃から米軍キャンプで歌い培った歌唱力で14歳で「子供ぢゃないの」でデビューしたのが1961年。
NEWYORKでのステージを前に特訓した歌が、のちにレコード化された |
その後数々のアメリカンポップスをカバーしてヒットさせ、日本人として初めて「ニューポート・ジャズフェスティバル」に出演。
帰国後アメリカで流行していたR&B(リズムアンドブルース)に刺激を受けレコード発売。
人形の家・私が死んだら |
Miko’70 ポピュラービッグヒッツ 編曲:佐藤允彦 |
The Wonderful World of MIEKO HIROTA |
ダイエット・整形による話題性は賛否両論あったが、
「人形の家」が大ヒットしたあとはレコード会社や所属事務所も力を入れたようで、「人形の家・私が死んだら」などのオリジナルアルバムはもちろん、R&Bのアルバム、ジャズアルバムを次々に発売した。
FROM MIKO WITH LOVE |
IN MY FEELING |
JAZZ TIME |
Love Songs |
JAZZ TIME |
My Funny Valentine |
StepAcross Mieko Hirota |
弘田三枝子リサイタル 中野サンプラザホール |
私の好きな歌 |
20代後半からの歌唱は、そのいずれも「パンチのミコちゃん」から脱却して、歌唱力はさらに飛躍し、色っぽさ・艶やかさが加わって、日本のポップス・ジャズ界はもちろんのこと、世界でもトップクラスと多くのミュージシャンや評論家が口を揃えた。
そのころ地元でのコンサートはもちろん、たまたま東京へ出張したときにコンサートがあると知って会場へ駆けつけたし、合歓の郷や高山原山のジャズフェスティバルで日野皓正や渡辺香津美との共演にも感激した。
サザンオールスターズの桑田佳祐が「チャコの海岸物語」で「心から好きだよミコ、抱きしめたい・・・」と歌っているのは知られているが、他にも「綺麗」というアルバムの中で「MICO」という曲を発表していたそうで、嬉しいことだ。
同世代でライバルとも言える伊東ゆかりさんがTVで出演中に「ミコちゃんは日本のトップ歌手だから」と言うのを少なくとも2回聞いた。
中尾ミエさんは「目の上のたんこぶだったわね。ミコちゃんみたいに歌えないのかって、いつも言われてた」
カレン・カーペンターもあれだけの実力と人気の最中に拒食症で亡くなったが、女心というのは外から見たときとは違う複雑なものがあるらしい。
弘田三枝子も最晩年にリカちゃん人形のように細く可愛く綺麗になろうと思わず、授かった天賦の才能とパワーを歌にぶつけてくれたらと悔やまれる。
そのスケールの大きさで歌謡界には収まりきれず、オリジナルのヒットは「人形の家」くらいしか知られていないかもしれない。
それでもYoutubeで自分の知らない弘田三枝子に出会った時の感動も忘れられない。
ライブ会場で、汗をほとばしりながら歌うロックやR&Bは、そこにコメントが書かれていたように、まさに「神がかっていた」。
最近、といっても何年も前になるが、TV出演ではたいてい「人形の家」しか歌わせてもらえず、以前より衰えた感は拭えないのを寂しく思っていた。
年令を重ねてサラヴォーンやエラ・フィッツジェラルドのようになっていくのを想像していただけに、妙に細い体になって声量が衰えていく姿を見るのは、なんともやるせない気がした。
今夜は少々深酒を覚悟で、在りし日の弘田三枝子に思いを巡らせてみよう。
青春時代にずっと寄り添ってくれた偉大な女性シンガーだった。
ご冥福をお祈りします。
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